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【場面緘黙症】はじめての音楽会。行事に参加しないとダメなのか?

音符

 

少し時間が経ってしまったが、小学校の音楽会があった。

小学1年生の娘にとって、初めての音楽会。

 

娘のクラスは、「きらきらぼし」を鍵盤ハーモニカで合奏することになった。

それ自体は、ピアノを習っている娘にとっては、わりと簡単なことだった。

ピアノ

 

だけど、場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)のため緊張と不安が極度に強く、学校で話すことや思うように動くこと、人前で楽器をひくこともなかなかできない娘は、練習のときも、皆と一緒にひくことができなかった。

 

家では毎日がんばって練習している。だけど学校ではどうしてもできなくなってしまった。

 

本番はどうしよう。練習すらできないのに、ステージの上でできるはずはないし。

 

本人も、「人前で演奏できないので本番は出れない」と言っており、先生にもそう伝えた。

 

先生もいろいろと、どうにか参加できる方法を考えてくださり、本番はステージのカーテンの後ろに立って参加する、という事になった。ひくことができないので、実際には、鍵盤ハーモニカを持って、カーテンの後ろで曲の間中ただ立っている、ということだった。私もそれで承諾した。

 

リハーサルが終わり、家に帰ってきた娘は、「一日中、早く時間が過ぎてほしいと思っていた」と言った。

 

その言葉を聞いて、胸がすごく苦しくなった。

 

だけど今さら休むとも言えず、「明日で終わりだからね。あっという間に終わっちゃうよ」と言うことしかできなかった。

 

そして本番。

 

緊張して体育館に入場してきた娘。

 

先生も忙しそうで、ちゃんとフォローしてくださるのか、娘の後ろ姿を見ながらとても不安になった。

娘たちの番になり、ステージに上がっていく。歩き方がぎこちなくて、少し遅れてしまう。

 

そして、ステージの真ん中辺で、緊張のためか固まってしまい、しばらくの間立ち往生してしまった。先生は他の事をしていて気づいていない。その姿を見て涙が出そうになった。「やはり休ませるべきだった」と思った。

 

やっと先生が気付いてくれ、みんながステージに注目する中、手をひいてカーテンの後ろに連れていく。

 

そして、何事もなくクラスメイトたちの演奏が始まった。

 

演奏の間中、娘はカーテンの向こうでどんな気持ちでいるんだろう、と考えたら、苦しくて仕方がなかった。きっと娘も思っているだろう、私も早く終われと念じていた。

 

そして思い出した。こんな気持ち、今まで何回味わっただろう。

 

幼稚園の頃のクリスマス会、小学校でのはじめての運動会・・・。

そして娘は、その度にどんな思いをしていたのだろう。頑張って参加しましょう、参加させないのは良くないと言われ、そうなのかな、参加させないとダメなのかな、と、どうするのが良いかわからなかった私は、行事前はいつも地獄のように感じながらも、先生たちに言われるまま参加させてきてしまった。本番に緊張のあまり、チックのような症状が出てしまったこともあった。行事のあとは、激しく癇癪を起こすこともあった。

 

娘以外のクラスメイトの子たちの演奏を聴きながら、写真を撮るわけでもなく、ずっとそんなことを考えていた。

 

やっと演奏が終わって退場になった。娘はカーテンの後ろからなかなか出てこられず、お友達に手を引かれてなんとか退場した。

 

終わって良かった。

 

緊張してこわばった表情の娘が退場していった。

 

手を振りながら、涙が出そうなのをこらえた。

 

先生は、笑顔で私に会釈していた。

 

そして、思った。

 

これに参加することが、本当に娘のためになったのだろうか。

 

音楽を好きになっただろうか。

 

これを終えて、何か成長しただろうか。

 

自分に自信がついただろうか。

 

表現力、協調性が身に着いただろうか。

 

 

きっとこういう経験をするたびに、娘の自尊感情は傷つけられている。

 

キラキラとした笑顔が、どんどん曇っていくのを感じる。

 

 

こんなことなら、やはり参加させるべきではなかった。

 

そして、学校行事のこういう在り方にすごく疑問を感じた。

 

 

子どもが自分で頑張ると決めて行うことは、最後まで応援したいと思う。

 

だけど、大人が勝手に決めて、自分で選ぶこともできず強制的に参加させられたものに関して、がんばったり楽しむことを強いても、子どもの成長につながるとは思えないからだ。

むしろ、うちの娘や、その親の私のように、この学校行事に追い詰められてしまう人間だっているのだ。

 

一人も欠けず、みんなで作り上げよう、というこの大人の自己満足のために、行事に無邪気に参加することができない子どもが、どれだけのプレッシャーを感じ、自己否定に陥るのか。そういった子の方が少数だったとしても、そこにもちゃんと目を向けて対応を柔軟にしてほしい。みんながみんな、子どもは無邪気に音楽会を楽しめるわけではないし、そうじゃないからといって、それが悪いわけではまったくないのだ。

 

何も考えず楽しめる子もいれば、困難な子もいる。色々な子がいて当然。本当は無理してみんなに合わせて参加している子だっている。どうしても行事に参加できなくて参加しないことを選ぶと、ものすごく自己嫌悪に陥らなければいけないくらい、みんなが参加して当然、という向きがある(そうじゃない学校もだんだんできてきているけど)

 

全員にとって楽しめ、成長できる参加の仕方があるのならそれが一番良いが、そこまで考える余裕などないと思うし、難しいだろうと思う。それならば参加しない選択肢も与えてほしい。

 

まずは参加するところから、子どもが自分で選ぶ権利があるはずだ。だから、娘の意思を私がもっとちゃんと伝えればよかった。学校の中で、子どもは自分の意思でどうすることもできないんだから。

 

でも、音楽会のあと感想を書かされた娘は、ついに本音を書いた。

 

「音楽会たのしくなかったです」。

ノート

 

先生が悲しそうにこのことを私に伝えてくれたとき、私はなぜかすごくホッとした。

 

もし、「楽しかったです」と書いていたら余計つらかった。

 

そんなはずないのに、大人に気を使ってそんなことを書いてしまっていたら、もう二度と私たちに本音を見せてくれなくなるような気がした。そうやって本音を隠して生きるようになってしまうと、多くの大人のように、どんどん自分の本当の気持ちがわからなくなってくる。本当の自分をどんどん見失ってしまう。だから、娘が本音を言ってくれて、まだ私たちに本音を言えて良かった。

 

この本音を、絶対に大事にしたい。

 

その日の学級通信には、音楽会について書いてあった。

娘だけがうつっていない写真と一緒に、

「楽しみにしていた子が多かった」「成長を感じた」

などの文字が書いてあった。

 

それが大人が子どもに望む理想の反応だというのはわかる。

 

だけど、本当にみんなそうなのだろうか。

 

音楽会を、楽しめなければいけないのだろうか。

 

学校行事に参加しないこと、みんなと同じように感じられないことは悪なのだろうか。

 

色々な思いが浮かんできた。

 

これまでもずっとモヤモヤと感じていたけど、私自身も大きくはみ出すことが怖くて、娘をなるべく皆と一緒にしようとしていた。

 

だけどそんなことよりも、もっともっと先に、娘の人生が幸せであることの方がとてつもなく重要だ。

 

つまらない考えや世間体などは捨て、ひとつひとつ後悔しない選択を今後はしていきたい。

 

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